lost


 傷は夜になっても癒えることはなく、むしろ麻酔の切れた体は全身でその痛みを抗議しているようで、身じろぎひとつすらひどく難儀に思える。
 暗い施設の部屋でひとりベッドに横たわり、クリスは体中に渦巻く痛みを少しでも逃そうと細く長く息を吐きだした。

   こうなることを決断したのは己。

   ヴァンパイアハンターになろうと決心したのは少し前のこと。だが決めたからといってそう簡単になれる職業ではない。吸血鬼とそれを滅ぼすのに必要な膨大な知識に、並外れた身体能力、また獲物に対しての嫌悪も必要不可欠だ。嫌悪ならもうすでに充分持ち合わせている。だが、その他については身につけるのに時間が必要だった。
 知識については、得られる限りすべての資料をクリスは貪欲に漁った。自身の呪われた身体もその研究の役に立つこととなった。また、一から剣術や体術を学び、鍛錬に鍛錬を重ねた。無論、吸血鬼となったクリスの身体能力は人間のそれよりもずば抜けていたが、相手も吸血鬼となればそれだけでは狩りはできない。
 世に蔓延る醜い同族を殲滅したいという憎悪は並のものではなく、また元から勤勉な性格も手伝い、その能力は実戦でも充分に通用するレベルに達するまで然程時間はかからなかった。
 だが、クリスはそれで満足はできなかった。
 もっと力が欲しい。自分の標的は吸血鬼の中でも特に強い能力を持つ真祖ヴァンパイアなのだから。

 そんな折に耳に入ったのが、戦闘に有効な力を発揮するという機械の身体だった。
 生身の体に無機質な金属を入れるということに今更戸惑いを感じはしなかった。既に自分は人間ではないのだ。

 そして機械の腕を取り付けるための施術を行ったのが今日のこと。
 生身の腕を切断して機械のそれに付け替える。
 技術が進歩しているとはいえ、身体の一部を切り離すことは被術者の体力とその命を危機にさらすほどに著しく低下させる。

  「まずは片方の腕のみを付け替えて経過を見ることをお勧めしますが」

 技術者の提案をクリスは首を振り退けた。

  「命の心配は不要です。それよりも一刻も早く私は力が欲しいのです」

 吸血鬼の治癒能力をしても両腕を切断した箇所の腫れと痺れは一向に治まらない。普通の人間なら傷がなじむまでに半年から1年はかかるという話だった。それなら自分はどのくらいの期間でこの腕を自分のものにすることができるのだろうか。神経はもう繋がっているはずの義手を動かしてみようと、鈍痛をこらえて力を入れても訓練を経ていない重く冷たいそれは一筋も動くことはなかった。
 この経緯も覚悟していたものの、腕を動かすこともできずにベッドの上に縛り付けられているようなこの時間がもどかしい。
 包帯に包まれた義手との接合された場所が、本物の自分の腕を探して嘆いているかのように痛みと痺れ、それから熱を全身に送りつける。身体が熱くやたらと喉が渇き舌が口内に貼りつくようだ。こんな時に自分が求めるものが冷たい水などではないということが忌々しい。

 この痛みも、憎しみに代えて力となるのなら。
 熱で思考がぼうとなりながらも気持ちを憎悪に集中させる。
 これもすべてはあの人を―――



 「クリス。なんて様だ」

 気配は感じなかった。
 だが、ぼんやりする頭を心中で叱責しやっと目を開けると、いつここへやって来たのか、今まで想っていた彼がベッドに腰掛けてこちらを見ている。暗闇の中、人間ではない証にその瞳が金茶に不吉な輝きをうっすらと放っている。
 フリルとレエスのついたブラウスに刺繍の入ったジャケットは時代がかっていて今がいつの時代なのか曖昧に思えてくる。大きく開いた胸元には金のチェーン。それから妖しい毒のように甘ったるい香水。そのどれもがこの部屋には似つかわしくない。なのに。
 その柳のような眉尻を下げて、悲しげな顔で義手を見たりして。なんとその様の憎らしいことか。すべての根源はあなただというのに。
 いまだ動かすことのできない義手が忌々しい。動けば今すぐこの人の胸を銀の刃で貫くことができるというのに。

「ヴァンパイアハンターになるんじゃなかったのか?」

 彼のしろい指が確認するように義手の表面を滑る。

「見るに堪えないな。この醜い腕はそのために?」

「ええ、あなたを滅ぼすために」

 口の中に熱が籠っているせいで擦れた声になってしまったが、身体的な苦痛は隠すことができたと思う。敵を前に弱みを見せることはできない。ともするとぼんやりとしてしまう目に殺意を込める。
  


 彼が目を細める。
 それが悲しみを含んだものなのか、憐みを含んだものなのか、嘲りを含んだものなのか、そのいずれであるのかは読み取ることはでき ない。

「殺す?随分と威勢がいいじゃないか。お前は今、こうしてベッドから身を起こすことさえ儘ならないというのに」

 彼の頭部が不意に沈んだ。
 首をのばし、その紅い唇から先の割れた舌をのぞかせぺろりと舐めたのは義手の甲。まだ感覚のない場所であるはずなのに、何を感じ たのかぴくりと肘が反応する。

「不味い」

 俺はお前の手指が好きだったのに、残念だ。カリリと舌の次は独特の長い犬歯を滑らせる。

「それは結構。あなたが不快に思うのなら、それだけでもこうした甲斐があったというものです」
「へらず口」
「・・ッ、ぐぅっ」

 きゅっと包帯の上を握られて衝撃が身体を貫き、思わず呻き声が漏れる。それでも体制を立て直そうと彼を睨みつけるが牽制の効果が あるかどうか。

「このまま、お前を喰ってしまおうか」

 そうつぶやいた彼の指が包帯の上を踊ると白い布は頼りなくはらはらと緩んでほどけてゆく。それをすっかり取り除いて彼は義手と腕 との接合面を確認する。
 その傷口は当然未だ塞ぎきってはおらず無様に腫れあがったそこは、若い女や気の弱い者であれば目を背けてしまうような状態といえ るだろう。だけれどそれに何の問題がある?

 予告通り彼は腕をとるとまずは義手に口を付けた。それから見るも無残な傷口へも。
 牙は立てずに、まるで慈しむかのように舌を滑らせては唇を寄せる。憎むべき吸血鬼に今まさに襲われようとしているのに、その感覚 は甘美で痛みとは違う痺れが腕をぞわぞわと這い上がって肌を粟立たせる。

  「 」

 なんとか拒絶を口にするものの、そのうっとりするような感覚に自分から腕を差し出しそうになる。
 それを知っているのか彼は腕に口を付けたまま、こちらの表情をちらりと確認すると顔を上にずらせていく。ゆっくりと隈なく口づけ られる肘、二の腕、肩・・・。蛞蝓の這った跡のような軌跡が冷たく余韻を残す。
 その時には既に彼の顔は肩口まで辿り着いてゆらゆらと落ち着きのない彼のくせ毛が私の顎や頬をくすぐっていた。彼によってもたら された痺れは全身に広がり緊張した身体を弛緩させ、やわらかなふわふわとした浮遊感させ感じさせる。
 どんな魔法を使ったのか、気がつくと彼が口を付けた右腕からは痛みが消えていた。
 しかも肘下の義手までもほんのわずかながら動かすことができるようになっている。
 私は最も憎むべき相手から情けをかけられているのだろうか。彼の好きなようにさせている屈辱が理性を苛むがどうしても回された彼 の腕を振りほどくことができない。魔的なまでの心地よさと、物理的に腕が動かないという理由だけではなく、ずっと昔の、子供のころ の私が、または隷属たる本能が主である彼を求めているように。

   ちゅ、と、ちいさな音をたてて頬に口づけをすると彼は一旦動きをとめた。

「このまま続けても?」

 息が鼻先にあたる、その時に今度は肌という肌が逆立つのを感じた。カッと顔に血が上る。この匂い。
 ほんのわずかだが、嗅ぎ逃すことのないその匂い。

  「―――ここに来る前に『食事』をしてきたのですね」

 まぎれもない、人間の、彼以外の男の血の匂い。
 彼の隙を突き、右足を引きつけ脚に全身の力を込めて自分に乗り上げるようにしなだれかかっていた体を思いきり蹴り飛ばす。手応え はあった。
 彼の体が衝撃にふき飛ばされ部屋の壁に激突したと思った瞬間、声は再び自分の耳に悪びれた風もなく軽薄な笑いと息を吹き込む。

「機嫌が悪いな。大手術に血を消費して腹が減ったか」

 黒く塗られた爪が、フリルのふんだんについたブラウスの前を肌蹴て肩まで晒す。

「お前も『食事』をしたいだろう?」

 もう一度蹴り飛ばして拒絶しようとしても、すべやかな肌を見せつけられると勝手に喉が上下する。自分もまた忌むべき存在なのだと 強く認識せざるを得ないこの衝動。

「ほら」

 首を傾げてウェイブのかかった肌にまとわりつく黒髪をかき上げしろい首筋を露わにすれば青く見える血脈が眼に張り付く。艶やかに 誘う声も、魔性の者以外何者でもないというのに。

 どうしても、そこに歯を立てることを止められなかった。

 一度噛みついてしまえばもう己を顧みることすらできない。強く噛んで、そこから流れ出る血を一滴も逃すまいときつく吸い上げる。 あさましい、忌々しいと憎悪している行為を何度も何度も繰り返す。虚しさと充足とあきらめを綯い交ぜにした感覚が血に酔った思考か ら遠く離れていく。

「っは、・・ぁ、クリス・・・」

 強く吸うたびに惜しげもなく奏でる彼の声に胸がしめ付けられる。  つい先程までカラカラに乾いていた口は潤い、霧が晴れたようにいやに思考がクリアになる一方でどこかがぼんやりとしている。もう 身体の痛みも熱も感じはしなかった。
 この人を、舌と肌で感じて安堵するのは間違っているとさえ既に思わない。
 ただ、交錯する思考と感情の狭間で彼を以前のように呼んだ。


「マスター」
 


 狭いベッドに横たわり、お互いに休息をとる短い間どちらも口を開くことはなかった。
 長い『食事』が終わって腹が満たされると、いつものことだが理性と一緒に強い後悔が襲ってくる。食事中一度クリアになったと思った思考はまたぼうっとしていた。長く眠りすぎて逆に少し疲れてしまった時のように。
 それでももう痛みは微塵も感じなかった。
 彼が、特に念入りに舌で愛撫した傷口はもう傷とは呼べないほどにきれいに癒えてしまっていた。まるで痛みや傷まで食べてしまったかのようだ。

 やがて彼が起き上がり身支度を整える。
 その口に煙草をくわえてマッチを擦る様さえ、自分はぼんやりと眺めることしかできない。殺気はもうすっかり削がれてしまっていた。
 だが、次に会った時には必ず―――。


「俺の、今の名はピジオン」

 暗い窓際に立つと彼は名乗った。窓を開けると冷たい夜風が部屋に吹き込んで彼のボタンを留めていないシャツの襟元をはためかせた。窓枠に足を掛けると彼は振り向きもせずに外に躍り出る。

「殺したければ、いつでもおいで。クリス」

 最後の言葉はたくさんのコウモリの羽音にまぎれて暗い夜空に遠退いていった。
 後には彼の纏っていた香りが漂うだけだ。 

「えぇ、必ず」

 開いたままの窓の外は暗闇。
 その先に憎むべき彼はいる。必ずあなたを滅ぼして、そして、闇の世界から。
 私にはもうそれしか縋るものがないのだから。






【後記】

なんかイタイお話になってしまいました。身体的にも気持ち的にも・・・。
やっぱりふたりが絡まないと楽しくないですよね。

ところで過去話なのでふたりの名前が(汗)。
レイフロはピジオンだし、チェリーはチャーリーじゃないだろうしでなんとなく書いてて妙な気持になりました。話し方なんかもきっと今とは違うでしょうし。

書きながら、なんだか谷崎の「芋虫」(という題名でよかったかな)を思い出しました。かなり違うけど。

クリスはこの頃マスターを本気で憎んでいた(と思い込んでいた)けど、深層心理ではやっぱり求めていたと思うんですよね。
その感情がほんの少し表面に出てきて憎悪と交差する、というシチュに我ながら意外と萌えました。